駅員のさけびは、空しく響く

2013年12月2日 初稿

新幹線の乗り換え口で

私は愛知県在住だ。名古屋市民でもなければ、名古屋市在住でもないが、広い意味で「名古屋」在住ということにしている。その方が他県の方との会話がテンポ良く進む。

名古屋在住の私は仕事で関東へ行く。関西へも、ときには九州へも行く。移動手段はもっぱら鉄道、そう新幹線だ。

新幹線に乗れば、必ず降りる。そして出口か乗り換え口かの別はあるにせよ、必ず改札を通る。今日はその新幹線改札口、中でも乗り換え改札でのことを書こうと思う。

出口と乗り換え口

混乱をさけるため、用語の定義について確認しておきたい。ここでは車両からホームへ降りることを「降車」、さらに改札口を出て路線から離れることを「下車」とする一般的な使い分けに従って話を進めることにする。

新幹線を降りると改札が2種類あることに気づく。出口と乗り換え口だ。新幹線の降車駅が同時に下車駅である旅客は出口へ向かい、それ以外──つまり、いまだ下車せず、JR線を利用し続ける旅客──は乗り換え口へと向かう。

新幹線の改札には、全国どの駅も自動改札機が導入されている。自ずとほとんどの旅客が自動改札を通ることになる。もちろん、乗り換え口も例外ではない。

乗り換え口での作法

乗り換え口に着いた旅客は、改札機に特急券と乗車券を入れる。間をおかず改札扉が開く。なぜだか少し安心する。

開いた扉のすぐ脇で乗車券は待っている。一足早く機械をすり抜け、先回りして待っている。その、なんとも健気な乗車券を、さっと引き抜き改札口を後にする。残り区間の移動のために乗車券が引き続き必要なのだ。

大声で叫ぶ駅員

その一連の作法のあいだ、改札の外から旅客に向かって叫んでいる人がいる。肉声ではこと足らず、拡声器まで使っている。聴けば、乗車券を取り忘れるな、と言っている。

その人とは、駅員のことである。乗り換え客は次から次とやってくる。かの駅員は休む間もなく叫び続けなければならない。どうやら乗車券を取り忘れると、その本人にとっても、駅員にとっても「とんでもないことになるらしい」ということが彼──あるいは彼女──の必死さから見てとれる。

違和感とその正体

乗り換え改札を通るたび、私は必ず、この業務に従事する駅員に遭遇する。「いなかった」ということがない。そんな恒例行事にもかかわらず一向に慣れない。つねに違和感がある。慣れるどころか回を重ねるにしたがって違和感が増してさえいる。

違和感の正体は「応急感」と「空振り感」だ。

拡声器で叫んで注意喚起する、という手法は、事故や災害などの際ならいざ知らず、平常時のそれとしては、あまりにも他とのバランスを欠いている。デジタルだとかアナログだとか、そういうことが言いたいのではない。十分に検討され尽くした策だとはどうにも思えない。そんな「とりあえず感」で満ちているのだ。

複雑すぎるしくみの本当の姿

不具合は起きるべくして起きた、というのが私の見解だ。自動化され続けてきた新幹線利用のしくみは複雑になりすぎたのだ。

それでも大多数の利用者はしくみを理解し、便利さをスマートに受け取っている。しかし少数派であるそれ以外の人は、そのしくみを実はほとんど理解できていない、と思って間違いないだろう。それとは知らずに湖面の薄氷の上を歩いているようなものだ。そして一段と薄くなっている部分こそ、このしくみにおいては、乗り換え口における改札なのだろう。

直感的なしくみは感覚を涵養する

1990年代に実用が始まった自動改札機は、実に上手く社会に受け入れられた、と思う。直感的で理解のハードルが実に適当であったのだろう。さして教えられなくてもほとんどの利用者が順応できた。そして、下車するときは「切符は機械に吸われて終わり」という感覚が気づかないほど自然に身についていき、ゆっくりと強化された。

実は「乗り換えている」と思っていない

前述の「しくみの理解が浅い利用者」ほど新幹線に乗るという体験は、在来線のそれに比べて非日常である可能性が高い。車両からホームに降りた瞬間、彼らは「着いた」という気分に支配される。新幹線も在来線も同じくJR線なので、本当に下車するのでなければ、いまだ「乗り換え中」なのだが、新幹線が「別物」である彼らには、乗り換えているという感覚がない。

故にそれが乗り換え改札でもあっても、いや、なまじ改札などを通らされるからなおさら、彼らにとって、そこは「出口」であり、改札機に切符を入れた刹那、その切符への意識は途切れ二度と戻ることはない。駅員の叫びもその耳には届かない。これが「空振り感」である。

そして今日も切符は取り忘れられる

繰り返すが、大多数の利用者は困っていない。この問題の優先順位を、高いと見るか低いと判断するかは、意見が分かれるところだろう。

それでも今日も全国の乗り換え口で駅員は叫び、切符は取り忘れられる。駅員が非生産的な業務から一日も早く解放されることを、強く願う。

この記事のURL|2013年12月 3日 00:09

磨いても磨きすぎることはないプロとしての資質

「思い込み」に気づく

「外でお湯を使いたい」と言われたことがない。「外でお湯が出るようにしましょうか」と確認したこともなかった。思い込みとは得てしてそんなものなのだろう。

きっかけはデザイナーの一言だった。「外でお湯が使えた方が便利なんじゃない?できないの?」

できない理由は何一つない。事例が圧倒的に少ないだけである。

実は「お金さえかければ、できないことはありません」というのが私の口癖ですらあった。乱暴な言い方だが、あえてそうやって一方の極端を示して、相手の思考のたがを外すことが狙いだった。

ところが今回は、他ならぬ私が、たがを外された。

技を磨いてこそのプロ

クライアント(発注者)が、知っていて言わないのと、知らないから言えないのは、似てもいないし、大きく違うが、結果が同じだけに、サプライヤー(供給者)を困らせる。知っていて言わないことは限られるが、知らないから言えないことは無限に等しい。これまたサプライヤーを困らせる。

でもプロは、困ってばかりいられない。

相手のみならず自分のたがにも意識を向けよう。見えない、聞こえない、そして感じないものは、ないものとは限らない。思い込みを手放し、素直になる努力に、し過ぎるということはないようだ。

この記事のURL|2011年6月 2日 16:42

なぜか誰も気づかない、建築設計図の落とし穴

100%共感される話

建築設計図には「答え」しか描(か)かれていない。最後まで話すと100%共感してもらえるこの話を、今日は詳しく書きたいと思う。

建築設計図を見たことがありますか

建築設計図、というものをご覧になったことがあるだろうか。いわゆる「図面」というやつだ。建物の新築、あるいはリフォームにかかわると、もれなく目にすることができる。

建築設計図が「ある目的のための手段」としてつくられていることくらいは、誰もが想像できるだろう。しかし、その目的が、実は一つではないということは、意外と知られていない。建築設計図の目的を列記してみる。

1) 建物の完成した姿を施主に伝える
2) 建物の完成した姿を建設業者に伝える
3) 建物の建設費用を算出する
4) 建物およびその建設行為が、法令にかなうことを証明する

細かく分ければキリがないが、大きくは、この4つ目的を果たすためにつくられるのが建築設計図である、と言えるだろう。

建築設計図もいろいろある

建築設計図は、1つの建物につき複数枚におよぶ。中には100枚を超えるものもある。平均的な一戸建て住宅であれば10枚程度だ。それぞれの設計図には、別々の目的があるからこそ1枚ではなく複数枚つくられるわけだが、その目的が上記1)~4)に当てはまることは言うまでもない。ものによっては、1つの場合もあるが、たいていの図面は1)~4)の内、2つ以上の目的を兼ねる。

例を挙げよう。「平面図(へいめんず)」と呼ばれる図面がある。建物をある高さ──たいていは特定の階の床と天井の間のどこか──で水平に切断し、切断面より下の部分を上から見下ろした様子を描いたものだ。平面図が伝えたい情報の半分以上は数字だと言える。いわゆる寸法だ。建物の大きさはもとより、壁の厚み、窓の間口、廊下の幅などをミリ単位で書き入れる。

平面図は1)~4)の目的をすべてかなえる。描かれた線や書き込まれた言葉と寸法は、完成した姿を施主および建設業者に伝え、建設費用算出の根拠となり、法令にかなうことを証明する。

設計図をめぐるトラブル

建築という行為は施主のお金と引き換えに、施主の頭の中の理想を建物というカタチにするものだと言える。すると建築設計は、施主の頭の中の問いに、カタチという答えを出す、という作業だろう。その答えを表現する手段が建築設計図であり、これは目的の1)にあたる。

施主は建築設計図を見る。納得すれば建設工事へと進む。「答え」である設計図を建設業者が見る番だ。これは目的の2)にあたる。設計図を見た業者は、建設費用を算出し、施主と契約し、答えの通りに工事に進め、建物を完成させ、施主からお金を受け取る。

実にスムーズだ。スムーズなはずだ。ところが...現実は少しもスムーズでない。しばしば流れがとどこおる。とくに建設業者が登場してからが、とどおこる。

問題は、気づかないこと。あきらめていること

建築業者が建築設計図に対して疑問を感じる。しっくりこない、と言った方が適当か。疑問を解消しようと努力する人はまれで、大多数の建設従事者は「しっくりこないこと」を文化のせいにしてあきらめている。ストレスはしかたないと思っている。疑問が生まれる真の原因を解決しようという意識を、残念ながら感じたことがない。

原因は明白である。冒頭に書いたとおり、設計図に答えしか描(か)いてないことだ。答えは問いと対でなければならない。「ねばならない」というより、問いの存在がなければ、それは答えとしての用をなさない。文化によって慣らされて、こんな当たり前のことにさえ、無頓着になっているのだ。

たとえ話をします

あなたが試験を受けるとしよう。出題形式は四者択一だ。解答用紙と一緒に、問題ではなく解答が渡される。試験官は「その通りに書けばよい」と言う。

その試験には間違いなく合格するだろう。必要なのは文字を書く力と素直さだけだ。けれども何とも、しっくりこない。そもそも、その「解答」とやらが正しいのかどうか、確かめる術がまるでない。そんなときほど、無類の素直さにあこがれることはないだろう。

あるいは船に乗っているとしよう。あなたは漕ぎ手だ。リーダーと呼ばれる人がいる。リーダーは「漕げ」と言う。オールの向き、力を入れるタイミング。漕ぎ方の指示は、実に丁寧だ。

ところがあなたは、船の行き先を知らない。あなただけでなく漕ぎ手はみな、行き先を知らない。そしてあなた以外の漕ぎ手は楽しそうでこそないが、不思議なくらい行き先に興味がないと見える。キャプテンは「俺を信じろ」と言う。あなたは...しっくりこない。

答えを書く時は、問いが知りたい

四択の正解は一つしかない。理想の船の漕ぎ方も一つかもしれない。設計者が出した施主の問いに対する答えも、おそらく模範解答だろう。

それでも私はこう思う。答えを書く時は、問いが知りたい。船を漕ぐときは行き先を知りたい。問いを知って答えを書く時と、行き先を知って船を漕ぐ時。その結果は、そうでない時と同じではない、と。

あえて文化に挑戦する

「建築という行為は、施主の頭の中の理想を建物というカタチにするものだ」と書いた。建築における建物は、先のたとえで言えば、解答用紙を完成させることであり、理想のフォームで船を漕ぐことだ。それは手段であって目的ではない。大切なのは目的だ。「問い」だ。施主の頭の中の理想なのだ。

建設業者は気づいていないが、問いを知りたいという潜在的な欲求がある。こだわりと自信があればあるほど、それは「設計図への疑問」というカタチで顕在化する。建設現場がとどおこる原因のほとんどがここにある。

私は、設計者、建設業者、そして施主として、10,000をはるかに超える数の建築設計図に触れてきた。その図面に描かれている答えが、どんな問いに対するものなのか。そこまで記載されている設計図には、ただの一度も出会ったことがない。

私が取り組むコンシェルジュサービスは、「答え」に対する「問い」を、施主側、建築業者側の全員で共有する、そのためだけにある。これは文化に対する挑戦だと思っている。

オーダーコンシェルジュ長谷川高士とは

この記事のURL|2011年6月 2日 15:12

「正しい」「間違っている」と力む人への対処方法

君は間違っている!

「君は間違っている」と指摘されて腹が立つことがある。きっと読者にもあるだろう。みんなある...と思う。

さて、この「君は間違っている」という指摘は、果たして妥当なのだろうか、ということを今日は考えたい。

私事を書かせて頂く。私は「善悪や正誤という基準で物事を判断するのを止めよう」と、ある時に決めた。「絶対的に正しいこともなければ、絶対的に悪いこともない」というのが私の持論...だった。過去形である。ある年明けに、持論を修正せざるを得ない機会にめぐまれた。

持論を修正した話

年賀状がきっかけだった。「宛名は正確に書かねばならない」という思いが、ふと頭をよぎった。ところが次の瞬間、言いようのない「嫌な気分」に支配された。

「正確...だって?」

実に共感が得られにくい話だと思うが、善悪や正誤という絶対的な基準を否定していた私が、何の疑いもなく「正確」という言葉を使って思考したことに、自分自身で驚いたのだった。

しかも、その考えを否定することができない。宛名は正確に書かねばならないのだ。当たり前だった。

おかしい。「正しい」などという基準はないはずだったのに。

しばらく考えた結果、嫌な気分を払拭することができた。そして、この嫌な気分を払拭できた理由こそ、今日の主題である。

正誤は比べた結果だった

善悪と正誤は、同列に扱ってはいけない。善悪は面倒だし、今日の主題には必須ではないので、後にまわす。

正誤である。私は、宛名を正確に、つまりは正しく書かねばならない、と思った。繰り返すがその通りだ。疑問をはさむ余地がまるでない。ではこの場合の「正しい」とはどういうことだろうか。

年賀状を送りたい相手がいる。その人に名前がある。そして、年賀はがきに書く宛名がある。この状況で、はがきに書かれた宛名が相手の名前と一致していれば「正しく」書けたことになる。この当たり前すぎる確認のプロセスは、当たり前すぎるがゆえに、普段は見すごされている。

そこで一歩踏み込んでみる。すると「正しい」または「間違っている」は、2つの事象を比べて得られる結果のことだ、ということがわかる。逆に言えば、2つの事象さえあれば、一方が他方に対して正しいか間違っているかを判断することができる。そう、判断できるのだ。

ここが私の誤解だった。正誤を善悪と同列に扱い「正誤という基準で判断するのやめよう」としていた。判断そのものを否定していたのだ。「絶対的な正誤の基準はない」ということと「正誤という概念は不要だ」ということは、似ているようで全くちがうのだった。猛省した。

腹が立つ理由

「君は間違っている」と私に指摘した人のことを考えてみたい。指摘した人は、何を何と比較したのだろう。「何を」にあたる何は「君」だろう。この場合の「君」は私だ。「君」の後ろには言葉が略さている。「の言ったこと」「のやったこと」など言動に関わることだ。ここでは代表して「私の言ったこと」だと仮定しよう。

「何と」にあたる何はどうだろう。きっとそれは「自分のルール」だ。彼は「私の言ったこと」を「自分のルール」と比べた。すると一致しない箇所が見つかった。そして「君は間違っている」と指摘した。

私は腹が立った。なぜ腹が立つのか。私は正しいと思っているからだ。私は「私のルール」と比べて一致すること、つまり正しいことを言った。しかし否定された。この時、私は、私のルールが否定されたと感じている。だから腹が立つ。

指摘した人の妥当性

さて、今日の課題は「君は間違っている」という指摘は妥当か、という問いに答えることだった。指摘した人の立場からすれば、妥当だと言わざるを得ない。ただし言葉が足らない。まったく足りていない。

間違っている、と指摘するときは、何を何と比べて間違っているのか、それを明確にすることが礼儀だろう。この場合なら「君の言ったことは、僕のルールに合わない」と言うべきだ。これなら不思議と腹が立たない。私のルールを否定されている、と感じないからだ。

こう考えてみてはどうだろう

「絶対的に正しいあるいは間違っている、という基準はない」という命題が、正しいかどうかはわからない。宇宙の真理、なるものがあるとすれば、その真理に一致することは「絶対的に正しい」だろう。しかし宇宙の真理なるものの存在を、肯定も否定もできないからだ。

肯定も否定もできないことは考えないことにしよう、と決めている。力まない方がきっといい。だから持論を修正した。「絶対的に正しいことはない」という部分を削除した。それ以来、「正しい」とか「間違っている」と力んでいる人に出会ったら、こう考えることにしている。

「この人は、一体、何を何と比べているのだろう」

答えがわかれば、つられてこちらも力まずに済む。相手の「間違っている」という判断を受け止めることができる。

私もまた「正しい」または「間違っている」と指摘する必要に迫られることがある。そのときは自分にこう言いきかせる。

「何を何と比べているのかを明確にして、話そう」

後まわしにしてしまった善悪のはなしは、後日書かせて頂く。

この記事のURL|2011年6月 1日 19:38

本当に求められる環境意識

エコへの疑問に水道屋が挑む

エコロジーという言葉が浸透し、その意味をあらためて説明する必要がなくなってから、10年ほど経つだろうか。

私は世間一般でいう「エコ」というものに対して、つねに疑問をいだいている。「エコ」という冠ばかりに意味がもたされ、守るべき環境とはそもそも何なのか、それは本当に守るべきものなのか、もっと言えば「守る」という意識そのものが本当に正しいのか、ということがすっかり置き去りにされているからだ。

料理、洗濯、風呂、トイレ。生活の中で私たちはたくさんの水を使う。その水がどこからきて、どこへ流れていくのか。読者は考えたことがあるだろうか。今日はまず「水が流れていく先」について考えることにしたい。

使った水の流れて行く先

いきなり答えを言おう。それは「川や海」だ。

私たちが生活で汚した水は、途中の道筋は違えど、すべて例外なく河川に流れる。そしてその一部は下流において取水され、浄水、配水、給水、排水という過程をへたのち、さらに下流の川に戻る。これを繰り返しながら川を下り、やがて海に入る。われわれが家庭から流し出したあらゆる水は、そうして海水になるのだ。

排水が「川や海」まで流れる路は、ほかならぬわれわれ人間がつくった。動物たちがつくったのでも、風が運んだのでも、断じてない。だとすれば、正確には「排水は河川に流れる」のではなく「排水は河川に流される」と言うべきであろう。

処理される水、処理されない水

人間がつくった「川や海へ戻す路」を流されている排水は、自らの意思とは無関係に、大きく2つに分けられる。

1) 処理
2) 非処理

つまり、手つかずで海に入る場合とそうでない場合がある、というわけだ。排水に手を加える。これが何を意味するのかを理解するには、排水や汚水とは何かについて考える必要がある。

水は使うとなくなる?

そもそも「水が汚れる」とは、どういうことだろうか。水、すなわちH2Oは日常生活で利用する範囲では、その組成を変化させることは"ほぼ"ない。あったとしても、その可能性は極めて低く、この話題においては無視できるほどでしかない。

われわれが水を使うということは、水道水に何らか物質を混ぜる、ということに他ならない。何らかの物質とは、タンパク質や脂質などの有機物のことだ。水は「使う」と言っても、消費され「なくなる」わけでもなく、別のものに変化するのでもない。容易に取り除けない何かが混ざり、もとの状態、すなわち飲める状態では「なくなる」のだ。

言葉にだまされてはいけない

われわれが水に混ぜてしまう何かのことを、時に人は不純物と呼ぶ。不純とは「何も混ざっていない純粋なH2Oに対して」という意味である。これは混ざり物そのものが純粋でない、ということと同義ではない。ここに誤解のタネがある。

あるいは生活排水のことを「汚水(おすい)」と呼ぶことがある。汚いモノが混ざった水、つまりは汚い水、という意味だろう。キレイとかキタナイというのは個人の主観だ。「汚水」という言葉もまた、生活排水の本質を表現できてはいない。

生活排水とは、水に異物が混ざったものである。その意味においては水道水と同じだ。雨水とも同じだ。地球上にあるすべての水には、多かれ少なかれ異物が混ざっている。

われわれは生活排水を「汚れた」「キタナイ」と形容する。大多数の人が主観でそう感じるからだ。その主観は社会的な共感を得られやすい。けれどもその形容のおかげで、生活排水とは何かという客観的な事実はかすむ。見えにくくなる。主観に左右される言葉で安易に呼称を形容すべきではない、と強く思う。

生活排水の本質

話を「処理」「非処理」の件に戻そう。

われわれが使った水は海へ行く。道は違っても、最後は必ず海へ行く。非処理、すなわち手つかずで海へ行く生活排水がある。混ざり物がそのまま海へ行く、というわけだ。

だから排水口から無機物を流してはいけない。当然のことだ。大きさがある程度のかたまりであれば、そもそも海にたどり着く前にパイプをつまらせる。

ほかにも、海へ入れてはならないものがある。それが過剰な有機成分だ。現在日本の法律は、海に流してもよい水という基準を設けている。一定量の排水中に含まれる有機成分も基準値が定められているものの一つだ。いや、むしろこの有機成分こそ、実は放流水質基準の肝なのだ。この一点に尽きる、と言い切るのはかなり乱暴だが、批判を承知の上で今日の話の目的のために、あえて言い切ってみたい。

肝は有機成分だ。

なぜ過剰な有機成分を海に入れてはならないのか。それは生態系が壊れるからである。「赤潮」と呼ばれる現象がある。読者も例外なく小学校で習ったはずだ。その赤潮の原因とされる「富栄養化」と呼ばれる状態は、この分解されていない過剰な有機成分によって引き起こされる。

キレイ、キタナイの問題ではない、とわざわざ断った理由はここにある。われわれが水を使うという行為。水の中に異物を混ぜるというその行為に問題があるとすれば、それは水をキタナクすることではなく、混ぜる異物が有機物であり、その割合が生態系を乱すほど大きいことなのだ。

処理って、どうしてるの?

「処理」とは、この水道水に混ぜられた過剰な有機成分を生物分解することに他ならない。とすれば「非処理」とは、自ずと過剰な割合で有機成分を含んだ水が海水になることを示す。

ではみなさん、あなたの流す水は処理されていますか。それとも処理されていませんか。そもそその答えをご存知ですか。

処理の方法は、どこで処理されるか、という観点から2つに分けられる。

1) 家庭
2) 地域

具体的には、

1) 家庭:浄化槽
2) 地域:公共下水道

ということだ。浄化槽も公共下水道も、生活排水中の過剰な有機成分を生物分解していることに変わりはない。違いは各家庭で処理をするか、地域の排水処理施設で処理をするかの違いである。

知られざる排水処理の問題点

「ならば問題ないではないか」という声が聞こえてきそうだ。問題は、ある。家庭において生活排水中の過剰な有機成分の処理を担っている浄化槽の処理方法には、また2種類あるのだ。

1) 単独処理
2) 合併処理

話を単純化するために結論だけを申し上げる。

1) 単独処理:し尿だけを処理する
2) 合併処理:し尿を含むすべての生活排水を処理する

お分かりいただけるだろうか。非処理のまま海水になる生活排水とは、合併処理浄化槽もなく公共下水道にも接続していない家庭から出るし尿以外の排水のことである。

そしてもっとも問題なのは、ここまで書いたことを知っている人が悲しいほどに少ないことだ。

自責の念と専門家としての思い

問題の責任の一端が、私をはじめとする水道工事従事者にあると自覚している。圧倒的に説明が足りていない。ご存じないのも当然である。

求められる環境意識とは、社会の共有財産を社会に戻すとき、その戻す責任を担う人にとっては、事実を正確に理解することに向けられる意識であり、その戻す行為に沿って商う者にとっては、事実を正確に伝える続けることに向られる意識なのだと思う。

この記事のURL|2011年6月 1日 18:50